”愛と夢”の話をしたいと思いながら、日々の戯れ言ばかりを呟いているよな気する。
「古色淡彩」
褪せた障子を透かして
朝の光は
まだ名を呼ぶ
あなたの名は くすんだラピスラズリ
けれど心に鮮やかな刻印
「Old Color Pale and Vivid」
時の上にすべらせた
一滴の藍
それはかつての約束
もう読めないのに 色だけが残っている
あの障子の向こうには、もう誰もいない。
毎朝、決まってこの時間になると、陽がちょうど部屋の隅に差し込んでくる。障子紙はところどころ破れかけて、古ぼけた白が茶色じみている。それが、なんとも言えず落ち着くのだ。
「色褪せたというのは、決して“失われた”という意味ではないの」
昔、女房がそんなことを言っていた。台所に立つ彼女の背を、縁側から眺めていたときのことだ。梅干しの瓶に朝日が当たって、瓶の中の赤が、年を経た和紙のように淡く透けていた。
その赤は、今でも目の奥にある。
 いや、目の奥ではないな。胸の奥だ。
この家にいると、音がすべて遠い。
 風の音も、時計の針の音も、まるで昨日のことのように静かだ。
 でも、不思議なことに、彼女の声だけは近く聞こえる。
「ほら、見てごらん。おばあちゃんが描いた襖絵。色がなくなっていくほど、輪郭がくっきりしてくるの」
彼女が亡くなる前の年に、孫に話していた言葉だ。
 それを、今になって、ようやく自分が理解している。
褪せた色は、思い出の中で鮮やかになる。
 淡くなった彩りは、心の底で燃え続ける。
いつか、自分も褪せていくのだろう。
 けれど、それはきっと悪くない。
 この家に差し込む光のように、静かで、確かなことだ。
古びた障子の白
 ところどころ 薄墨のような影
 それは 過ぎ去った日々の声
淡い色は 消えたのではない
 心が 深く染まっただけ
茶碗のひびに光が宿る
 破れた紙が風をよぶ
遠い日――
 ラジオの音が 雨粒に似ていた朝
 きみは 笑って
 梅の実を 一粒 手にのせた
あれから
 色は静かに退いてゆく
 けれど その静けさこそが
 いま わたしを包んでくれる
古色淡彩
 それは ひとの最後に咲く
 やわらかな 光の記憶
—詩と物語の交錯する掌編—
春の光が障子を透かして、畳に四角い影を落としていた。
 老人は、その影の中に手を置き、しばらく動かなかった。
 その手には、小さく欠けた茶碗が乗っている。
褪せゆくことに
抵抗しない茶碗の縁
そこに
声が座っている
「この茶碗はね、わたしの母から受け継いだものなの」
 妻がそう言ったのは、たしか、春の始まりだった。
庭の梅が最初の一輪を咲かせた朝、
 まだ若かった二人は、その茶碗で茶を啜った。
 花の香りが風に乗って、障子の向こうからやってきた。
香りは
色より先に
思い出の扉を叩く
音もなく けれど確かに
老いた今、香りはない。
 けれど、記憶の中の風だけは、まだ吹いている。
その日、彼は、ひとつの封筒を見つけた。
 茶箪笥の引き出しの奥。
 「春の初めに開けてね」と、妻の字。
手紙の中には、若き日の写真と数行の言葉。
 そこに彼女が、たしかにいた。
わたしが褪せていくとき
あなたのなかに咲いてください
それがわたしの
色の終わりであり
あなたの春の始まりです
老人はそっと目を閉じる。
 もう風も音もない室内で、
 彼女の言葉がじんわりと胸に染みていく。
色を失った障子の白が
いま もっとも vivid に
この部屋を照らす
彼は、茶を淹れる。
 欠けた茶碗に、淡い緑がそっと注がれる。
湯気はたちのぼり
誰にも触れずに
過去と未来をつなぐ
一筋の線となる
「ありがとう」
 小さく呟いた声に、誰かが微かに返した気がした。
 もう、それだけで十分だった。
古色淡彩
それは 時を重ねて
自らを赦すための
いちばんやさしい 色の名前
春の終わり、老人は障子をすこし開けて、庭の灯に目を細めた。
 夕暮れの空は、灰と薄紅が交じりあうように滲んでいた。
 いつの間にか、あの茶碗のひびが広がっている。
 だが、捨てる気にはなれなかった。
時というものは
音も立てずに
やさしく壊れていく
けれど それは
「終わり」ではなく
「透けて見えるもの」の始まりだった
茶を啜ると、香りの記憶が立ち上る。
 それは妻の髪にふれた風のにおいだった。
 彼女の気配が、そこにいた。
その夜、彼は夢を見た。
 夢の中で妻は、若き日の姿で障子の向こうに立っていた。
 笑いもせず、泣きもせず、ただ目を細めてこちらを見ていた。
声は届かず
名も呼べないのに
なぜか 懐かしさだけが
鮮やかにそこにあった
目を覚ますと、部屋はまだ薄闇の中。
 だが、障子の縁がほのかに赤く染まっていた。
 夜明けが来たのだ。
彼は、もう一度茶を淹れた。
 欠けた茶碗に、光が宿る。
手紙の裏側にもう一行だけ、書かれていたことを思い出す。
「光は、色褪せない。あなたのなかにあれば」
その言葉を胸に、
 彼は障子をゆっくりと開けた。
そこには、
 春の名残を宿した、ひとひらの白い花びらが
 静かに舞っていた。
古色淡彩
それは過ぎた時間ではない
心の奥に
いまも灯る
無音の、あたたかな色